フェルマータの歩み
原理事長インタビュー①
NPO法人フェルマータは「障がい者の街の暮らしをつくる」をモットーに、大阪府高槻市で23年にわたり活動を展開しています。今回は理事長の原 敏(はら・さとし)さんに「フェルマータの歩み」として、ご自身の精神医療との関わりやNPO法人の創立、地域支援での紆余曲折をお伺いしました。5回にわたりお届けします。
NPO法人フェルマータ
理事長 原 敏
「退院したい。原さん、絶対応援してや!」
患者とともに踏み出した精神病院から地域への1歩
昭和後期~平成初期における精神病院のようす
―約40年前、昭和後期ごろの精神医療を取り巻く社会をどのように感じていましたか?
社会における「精神障害」への理解は今よりも乏しく、社会の中で蓋をさせられ、弱者として特別扱いされた当事者の方たちは、当然のように傷ついた歴史を背負いながらも生き延びてきたと言えるのはないでしょうか。
社会は光が当たる部分や気づきやすい問題を取り上げる傾向が強く、それ以外は見て見ぬふりをされる風潮があります。
しかし、健全な社会とは影の部分と言うべき人の内面や一人一人の生活に密着したものの見方をするということを忘れてはいけないと思います。
―NPO法人フェルマータの創立以前は、精神病院で働いていたとお聞きしました
1978年、22歳で右も左も分からないまま精神病院へ看護職員として入職しました。それが私と精神障害との始まりです。最後に勤めた精神病院は「長期入院患者の退院促進」を掲げていました。その当時はまだ、精神保健福祉士が国家資格として創設されていませんでした。もちろん、国家資格以前でも病院内にはソーシャルワーカーが在籍していまいた。ただ、主だった関わりは「退院が決まった患者さんに対する支援」です。病院の方針で「退院促進」を謳っていても、病院内にはそれを行動に移す様子は乏しく、退院が促されることもありませんでした。
―精神保健福祉士の資格もまだ創設されていなかったのですね。現在とのギャップを感じます。
精神科では数年~何十年にもわたる長期入院が慢性化していて、この現状を打破したい思いが強くありました。申し添えておきたいのが、これは決して病院を否定しているわけではないということです。あくまでも病院は“医療を施す場所”であって“生活の場所”ではありません。「患者さんの状態が急性期を終えて安定したら、地域に戻って暮らす」のが望ましいという意味です。
「退院促進」の根幹にある恩師の存在
―長期入院の患者さんは、病院でどのように過ごされているのでしょうか?
はじめて病棟に入ったとき「閉鎖的な空間で社会とは到底思えない。隔たりのある異質な社会」と感じました。廊下に寝そべっている、壁伝いに壁をこすりながら歩き続ける…奇妙といえる動きを示した患者さんに対して放置している実態を目の当たりにしました。それは「解放化」を謳(うた)った名のある精神病院でも同様でした。何か理由があるのだろうから「どうしたの?」と声をかけたらいいのにと内心は思っていましたね。
―「退院促進」を強く思うきっかけは何だったのでしょうか?
京都にある洛南病院に在籍されていた大越先生の志が私の根幹にあります。
当時の洛南病院は、閉鎖的な精神科医療を解体する解放化(脱施設化)運動を全国でも中心的に行っていました。それを牽引していたチームに大越先生がいらっしゃいました。
大越先生から、地域生活を中心とした精神保健福祉の在り方について多くのことを教えていただきました。例えば、イタリアのトリエステ地方での取り組みです。これは精神科病院なしで、精神障害者を地域で支えることが可能であることを証明した事例です。世界から見て遅れていた日本の精神科医療の時代に、根本的な視点での課題解決へと導いてくださいました。
―大越先生の存在、そしてイタリア・トリエステ地方の取り組みが基盤にあるのですね
その後、偶然にも高槻市内の精神病院にて大越先生が理事長、私が看護職員として一緒に働くこととなりました。当時の社会は、精神保健福祉法の成立により“自立と社会参加の援助”が推進されたことも追い風となって、支援センター、生活訓練施設(援護寮) 、精神科訪問看護が相次いで創設され地域での支援体制も増えてきました。
そこで、大越先生から「退院促進と地域資源づくり」に注力しないかと呼びかけがあり、私ももちろん賛同しました。そうして病院内での“退院促進チーム”の一員として尽力し始めたという経緯があります。
「本当は退院したい」患者さんの本音に寄り添う
―長期入院している患者さんへ、どのように退院を促したのでしょうか?
病棟でも「退院のイメージ」を持てていない看護師が大半でした。その状態では退院に向けた行動を起こしようがありません。そこで、一足飛びかもしれませんが「患者さんに退院へ向けたミーティングを開きたい」と、病棟看護師たちへ直談判の交渉に回りました。そしてミーティングで「退院したい人、手を上げてください」と、患者さんに希望を直接聞きました。患者さんの気持ちがまず大事だと思っていたので、症状はあまり気にしていませんでした。
個別アプローチには、看護師に退院できそうな患者さんをリストアップしてもらって、面談の機会を設けてもらいました。今だったらこんな無茶なことは出来ないかもしれませんね。
―患者さんの“本音”はどのようなものだったのでしょうか?
病気の有る無しにかかわらず、誰しも初めから本音を話すことは少ないと思います。ましてやそれが、精神障害を抱えた当事者であれば状況はさらに複雑です。病的世界に入り込み、“医者も匙を投げる”と言われるような重度の方との意思疎通は困難さが増します。
初めは「俺は退院する気なんかない」「こんな自分は死んだほうがマシ」「乗り越えられへん」と、みなさん言います。退院出来ない理由をたくさん並べる。
でも、関係が深まると健康的な意思疎通が取れるようになってきます。1か月、2か月と関わるなかで、「本当は…」と話し始めてくれる。患者さんを追い詰めてしまうように努力するのではなくて、寄り添いや長く一緒に関係を作っていくことで、はじめて言葉になる思いがあります。それが「本当は退院したい」です。
「原さん、絶対応援してくれや!」患者さんから信頼の声。
その都度、何度でも言葉にして築く信頼
―多くの長期入院患者さんが「退院したい」と思っていらっしゃいましたか?
もちろんです。「本当は退院したい」という本音が必ずある。私自身もそう思いながら関係をスタートさせます。「できるのなら退院したい」と思う一方で「でも今さらなぁ…」と、ためらいもある。
だからこそ「一人ではできへん(出来ない)よなぁ。もちろんな、そこを原(私)が応援するわ。じゃあ何が一番難しいことだろうか」って理由を聞いていく。本人が自覚している病気の部分よりも「親が…先生が…」「最初の頃は退院したいって言っていたけど、ここまできたらもう無理やって。」という本音が出てくる。もちろん病院側は治療を施しているので、本人の行動を制限するのは仕方がない部分もあります。
―退院への不安や迷いがあるのは当然のことですよね。
本人には「退院できるひとつの物差し(基準)がある」「外で暴れたらあかん」ということを、わかりやすく、細かく砕いて伝えていく。その都度、何回でも言います。「薬を飲んでいるから、症状がここまで抑えられているのだろうね」ということもオープンに話します。そんなやり取りを続けていくうちに「やっぱり退院しようかな。原さん、絶対応援してくれや!」と、本人の気持ちに変化が見え始めます。
原理事長インタビュー②に続きます
取材日:2024年9月19日
ライター:大野佳子