能登半島地震 災害派遣レポート
災害ボランティア派遣として、フェルマータから三澤看護師が約2カ月半間の被災地での支援に尽力されました。ご本人の現地体験記を紹介します。
能登半島ボランティア活動の経験をして
29年の月日が流れても今でもあの時の事ははっきり覚えています。
阪神淡路の震災では両親や親戚、親しい友人の多くが暮らしていて、何度も足を運んだことを思い出しました。
2024年1月1日。能登半島地震の報道をテレビにかじりついて見ていたら、次第に被災地の情報が明らかになっていき、自然にボランティア活動について調べていた。5日には「行こう」と決断した。だけど、当初、石川県は不要不急の移動は控えるように発信しており、一般のボランティアについて個別に被災地に行く事はお控えくださいと呼びかけていた。その理由は、道路状況が悪く渋滞が懸念されるためなどと言われ、その後は炊き出しや災害後ゴミの撤去のボランティアを探していました。
厚生労働省から“社会福祉施設、避難所等に対する介護職員等の派遣マッチング”を教えてもらい登録して10日後には出発をしました。電車で行くつもりで荷物を詰めると、3日分の食料、衣類、衛生材料などでいっぱいになり持って行く物が限られてしまう。道路状況が不安でしたが自家用車で行くことに変更して、布団やタオル類を追加しました。
派遣先は金沢市の認知症高齢者のグループホーム施設でした。前日の夕方には何とか到着でき、1月20日の朝から勤務が始まりました。施設側では、能登の高齢者施設で住めなくなり1.5次避難所からの車椅子の84歳の方の受け入れもされていました。職員の実家が能登の方もおられ、職員の休みを確保できない状態でマッチングを依頼したそうです。
訪問看護で移動しながらの勤務に慣れていたせいもあって、ワンフロアーで立ちっぱなしの仕事を時間内にこなして行くのは最初きつかったです。入居者は要介護2~5の方が10人。その内、要介護5の方2人、徘徊移動する方1人。24時間体制でスタッフは時間をずらしながら4人が勤務。受診の付き添いも少ない人数で同行していました。
2カ月半の派遣期間を介護職員として働かせていただきました。災害派遣を終えることで、施設職員の休みが取りにくい状況にまた戻るかと思うと後ろ髪を引かれる思いでした。金沢市はほとんど被害には遭っていませんが、スタッフが能登の現状の話をしてくれました。「道路の通行止めが多く、2時間で帰れるところを迂回すると4時間かかる。母親を入浴させるために往復8時間かけて運転している。」「能登の高齢者施設から福井に移ったので会いに行くのが困難になった」など。また、「津波や火災で何もなくなり、避難所で励まし合いながら今はできることをやろうと話しているの」ともお聞きしました。
平和だった石川に戻るには何十年もかかるかも知れません。今は復興に向けて動き出しています。改めて、当たり前のことですが大好きな家族や知人とご飯を食べられること、眠れることはとても幸せなことだと思いました。グループホームの皆さんが温かく迎え入れて下さったので楽しく仕事をすることができたのですが、仮住まい生活での気遣いが老体には響いてしまい、延長ができなかったかな。大阪に戻りしばらく経過したら、また戻りたいという気持ちにもなりました。それは、たくさんの『ありがとう』っていっぱい聞いたから。
犠牲となられた方々に深く哀悼の意を表すとともに、負傷された方、被災された方、その御家族および関係の方々に心よりお見舞い申し上げます。
写真:石川県ホームページより
令和6年6月
看護師 三澤 洋子